火曜の昼下がり、駅前のベンチでこんな男にあった。
真っ黒な見るからに暑苦しそうなコートを着た、中年のやや痩せ気味の男だった。
その日、私は友人の家に向かう途中だった。約束の時間にはまだ少し早い。
(変な奴がいるな、春先だからかな)などとと思いつつ、私は少し間を空けて男の隣のベンチに腰を下ろした。
男は私と目が合うと、小さく会釈をした。
無視するわけにもいかず、私は会釈を返した。
「ノアの箱舟の話をご存じですか?」
藪から棒に、男はそう尋ねた。
「え?ノア・・・?それって、あれですか?聖書の・・・」
私の言葉に男は無表情に頷く。
その顔に、奇妙な感覚を覚えた。
「そうです。ノアが神から人類の破滅を教えられ造ったという、あれですよ」
今更何を言っているんだと、私は小さく鼻で笑った。
1999年も何事もなく、恐怖の大王なんて来るはずもなく、世紀末ブームとやらが流行ったのはもう今となっては遠い昔の出来事のような昨今に、宗教勧誘も楽じゃなかろう。
私のそんな態度に、男は気分を害したふうでもなく、静かにこう続けた。
「神は文明をもって自分に近づこうとする者には極めて残酷だ。アトランチスしかり。バベルの塔しかり。平等じゃないんですよ。実際、生物なんてみんな」
そう言って、地面を指さす。
「ほら、この虫たち。地中深くに潜っていればいいものを、こうして日に当たるため、風に当たりたいがために地表に出てきて、あっけなく踏まれる」
男は表情一つ変えることなく、足を地面に叩きつけた。
そう、見えたのだが、虫は実際男の足によって踏みつけられたのではなく、間一髪のところで無事であった。
男は虫を片手でひょいとつかむと、ポケットの中へ入れた。
ゆっくりと立ち上がると、男は季節外れな黒のコートを羽織り直した。
「こちらがこんなに暖かいなんて思ってもみませんでした」
暑ければ脱げばいいじゃないか、変な奴だ。こんな所にコートを着て何時間もいるような奴、やっぱりまともじゃない。これ以上関わり合いになるのはゴメンだ。
そう思いながら立ち上がろうとする彼をあえて見ないようにしていると
「安心してください。もう時間がありませんので。すぐにここを去って帰らなくちゃいけないんですよ」
心の中を読まれた気がして、驚いたように男を凝視した。
しかし、その視線を気にするでもなく、男は澄み渡った青空を見上げてまぶしそうに目を細めた。
「今日はとてもいい天気でした」
そう言って、男は行き過ぎた。
そろそろ行こうか。
私もそう思って、ベンチを立った。
男の去った方を振り返る。
男の姿はもう見えなかった。
私は平日の昼下がりのがらがらにすいた地下鉄に乗り込んだ。窓からは何も見えない。景色など見えないのだから、窓なんて必要ないのではないか。地下鉄に乗るたびに私はいつもそう思う。
私は車内につってあるポスターに目をうつした。
『オリンピックの金メダリストが行方不明!!多額の借金を苦に失踪か!?』
またか。昨今有名人が失踪するとすぐにこれだ。と、私はふっと笑った。
今日これから会いに行く男は、学生時代からの友人の一人だった。
彼は学生時代、私と同じ文芸同好会の部員だった。私はその頃から力作とも言える作品を書いては某小説新人賞に投稿していた。私は自分の作品に自信があったし、学生時代にもいくつかの賞に入選もしていたので、同年代の者たちが就職に手こずっているあいだも、気楽にかまえた。そして卒業前にはあたかも約束されていたかのようにプロ作家として、デビューする事ができた。
友人のその男は、小さな会社に就職をした。
一昨々年、彼は親の薦めで結婚をした。披露宴の席で、新郎となった彼に、
「君はすっかり社会人が板に付いたようだね。僕はダメだよ、社会不適応者さ。まぁもっとも、僕のような職業の者にはそのほうがむいているのかもしれないけどね」
皮肉混じりにそう言うと、
「僕もたまに趣味程度に小説を書きためてはいるんだよ。君のように世に出すことはもうないだろうけれど」
そう言って、力なく笑った。
その顔は、おそらく彼が会社の上司を、得意先の社員を前にするときにするのであろうビジネススマイルで、私はほとほと呆れた。
どうやら彼は骨の髄まで私のもっとも軽視する平凡なサラリーマンに成り下がってしまったらしいと思った。
『渡したいものがあるから、火曜日に是非うちまで来て欲しい』
数日前、彼からそんな電話をもらい、私は渋々ながらも彼の家に向かうこととなったのである。
地下鉄を下りて、少し歩いたところに、彼の家があった。古い団地に彼は住んでいた。
ドアのチャイムを鳴らすと、中からパタパタと音が聞こえて、彼の妻が出てきた。
「今日ご主人と会う約束をしていた者ですが」
彼の妻は、ああ、と無愛想に言うと、部屋の奥へ消えていった。
結婚式に一度見ただけであったが、彼の妻の顔はその時とは別人のようにやつれて、鋭い目つきをしていた。
確か私よりも4つばかり年下だったはずだが。
皺の目立つその顔に遠い日のウエディングドレスに身を包んだ華やかさを見つけだすことはできなかった。
彼女は「ああ」と低くつぶやき、
「ちょっと待っててください」
そう言って家の中へと引き返した。
そして、すぐに戻ってくると、私の目の前に一通の封筒を突きつけるように差し出した。
「主人は今家におりませんの。あなたがいらっしゃったらこれを渡すように言付かってましたので。どうぞ」
私は呆然とA4サイズの封筒を受け取った。
「そうそう、主人に会うようなことがあれば、家にはもう帰ってこなくてもいいと伝えておいてくださいな」
「いないだですって!?どういうことなんです?」
「どうもこうも知りませんよ!いきなり帰ってこなくなって今頃どこで何をしてるんだか!」
彼女の剣幕に押されて、私は言葉を失った。
手渡された封筒をちらりと見て礼を言うと、私は早々と彼の家を後にした。
蒸発?失踪?
人を呼び出しておいて、全く失礼な奴だ。
憤慨しつつ、私は帰りの地下鉄でその封を開けた。
中には数十枚の原稿用紙と私に当てた手紙が入っていた。
僕は手紙をそっと取り出して、目を落とした。
『君へ。
僕は行こうと思う』
書き出しはそう始まっていた。
こんなところまで、小説風に書かずともよいのに。私は口のはしに冷笑を浮かべた。
『詳しくは書けない。
迎えがいつ来るかわからないから。
もし、約束した火曜日までに君に会えなかったら、この手紙が君に僕のことを語るよう、家内に預けておく。
心配はない。家内は僕の手紙なぞに興味はないだろうから、これは確実に君のもとへ届くだろう。
僕は君がうらやましかった。
君はいつも僕の先を行っていた。君のできたことで僕ができたことなど、今まで何1つもなかった。
それを己の限界だと、僕は思っていたんだ』
彼の手紙は、そんなふうに何を言いたいのか、主旨がつかめない内容が、書き連ねられていた。
妻は自分をもう必要とはしていないだの。もうこの世界には未練はないだの。そして最後に
、
『僕は幸運だった。夢のようだ。信じられない。
そこへいけるのが嬉しくて言っているのじゃない。誰かに認めてもらえたことが、嬉しいのだ。愛すべき友よ、さようなら。
僕は箱舟に乗れたのだ』
そうくくられていた。
読み終えた直後、私は彼が死んだのでは、と本気で考えうろたえた。
しかし、それではおかしい。
迎えが来るとは何だ?
約束した火曜日に会えなかった場合?
自殺する者が、自分がいつ自殺するかがわからないなど、おかしいではないか。
箱舟とはなんだ?
『ノアの箱舟の話をご存じですか?』
昼間の男が浮かんだ。まさか。と首を振る。
私は地下鉄の中であれこれ考えた。
家に帰るともう一つの原稿用紙に目を通した。
それは、短い小説のようだった。
癖のある、やや右上がり気味な彼の文字がそこに書き連ねられていた。
小説の内容はこうだった。
高度に成長した文明を持つ種族が地下深くに”ジオトラポリス”なる巨大シェルターを作った。
表向きは増え続ける人々の暮らすもう一つの社会の開発として。しかし、実際の目的は、やがてやってくる神の制裁を恐れての防護策だった。
彼らは自分の身を守るための地下の楽園を作った。
そして、時を待たずして制裁はやって来た。
人々は地下へ潜り込んだ。選ばれた者だけ。
その者たちの子孫は世の終わりを知らされることなく世紀を歩み始めた。逃げ延びた者は、己が可愛い種族の権力者たちだった。
選ばれなかった民はそのことを知り激しい憤りを見せた。
どうして自分たちを助けてくれない!?権力は民を平等に守るためのものだと聞いていた。我々が身を削って建てた楽園なのに、何故追い出されなければならないのだ!!
しかし、権力者たちはその声を無視し、ジオトラポリスの扉をついに開けることはなかった。
こんな事は許せない!許されるはずがない!!誰にだ?神にか?いや、ちがう。神なぞではない。神は我らを見捨てたもうた。それは強いて言えば宇宙の摂理。神以上の大きな、あらがえぬ力。神以上の裁きにより滅び、滅びを免れ屍の下でのうのうと生き続ける奴らを、それはけして許さないだろう。
それは血を吐くような叫びだった。
神によりその命を守られたというならば、我々は地の怒り、神以上の存在の力を持って、再び神に選ばれし楽園を地に沈めようではないか。
人々は苦しさの中でうめきながら自分たちを見捨てた者を恨んだ。
そこで、物語は終わっていた。
僕はくわえていた煙草の灰がボロリと膝の上に落ちるのも気にせずに、ただぼんやりと原稿用紙を見つめていた。
相変わらず下手糞だな。そう鼻で笑おうとしたができなかった。
嫌な予感が胸をよぎった。
彼が残したものの、不可解さが、不安に拍車をかける。
『僕は行こうと思う』
どこへ?
『誰かに認めてもらえたことが嬉しいんだ』
誰に?
『箱舟に乗れたのだ』
『ノアの箱舟』
『ジオトラポリス』
『選ばれしものが救われる地下の楽園』
『相次ぐ失踪』
『ポケットの中の虫』
不安は次第に真実味を増して、襲いかかってくる。
「・・・神の・・・制裁・・・」
私は急いで電話を掴むと、建設会社に連絡をした。震える声で、すぐに我が家の庭を掘って欲しいと依頼をした。
私は気づいたのだ。
この小説はフィクションではない。
物語はこれから起こることを暗示しているのだ。
そして、彼は選ばれた。次代に残すにふさわしい才をもつ者として。
私は彼に激しい嫉妬をしていた。
あれほどバカにしていた、とるに足らないと嘲笑していた奴が選ばれた。
私ではなく。
こめかみが熱く、脈をうっているような感覚におそわれる。
何もかもどうでもよかった。
今までの栄光も、生活も、恋人も。
ただ、頭の中を支配する言葉は一つ。
どうして私ではなく彼なのだ!!
この地下にきっとジオトラポリスがある。
そこに彼は行ったのだ。
私は庭を深く掘った。
深く、深く。
ジオトラポリスに行き着くまで深く。
仕事などどうでもよくなってしまった。
机に向かうことなど、ペンを握ることなど。
周囲の人々は怪訝そうな顔をしてあまり人に知られていない病院を勧めてくる。
そんなもの、どうでもよかった。
恋人は眉をひそめて冷ややかに私を見つめ、去っていった。
そんなもの、どうでもよくなった。
夜も眠れずに掘り続けた。
彼が選ばれてそこへ招かれたのならば、私はそこへ自力でたどり着こう。
他の連中はまだこのことを知らない。
私なら、ジオトラポリスにふさわしい。
ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎた。
世間も、世界的権威の学者や、人間国宝などと言われる人物の失踪に、次第に疑問を抱いてきているようだった。
ようやくみんな真実に気付きはじめたか。
いや、だがも遅い。今からでは間に合わぬ。
いち早く気付いた私以外は。
本当に、私は選ばれなかったのだろうか。
ふとそんな疑問が、頭をよぎった。
あの日、彼の家に向かう途中で会ったあの男は、もしかしたらジオトラポリスからの使者だったのではなかろうか。
そうだったのかも知れない。
どこかが違っていたら、私もそこへ招かれていたのかも知れない。
グルグルと回る連想をくい止めることもせずに、私は穴を掘った。
深い、奈落の底に自らを埋めるように。
突然頭上から土が降ってくる。
見上げてみるが、そこにあの晴れわたった空はなかった。ただ、暗闇があるばかりで、自分が縦に向いているのか、横になっているのか、全てがわからなかった。
ついに何かが起こってしまったのだろうか。
真っ暗な中で、私は、何もわからなくなってしまった。
ふと、私の脳裏に1つの考えが首をもたげた。
どれほど掘っても、行き着かない地面。
考えられる可能性はたった1つだった。
私はここが外だと思いこんでいた。
しかし、ここは中だったのだ。
その可能性しか考えられなかった。
私はやっと、自分の間違いに気づいた。
あれは、彼の小説は、未来を予見したものではなかった。
あれは私が生まれる何千年も昔の過去に起こった記憶。
あれは、人々に知らされなかった、陰惨な過去の歴史。
この頭上の高く上には、遠い過去、私たちの先祖に恨みを残した生き残りの民の末裔たちが、怒りに身を震わせて、私たちの滅亡を待っている。
しかし今となっては、気づくのが遅すぎた。
私の全てを大地が飲み込んでゆく。
意識を手放す瞬間、私は笑いたいような気持ちになった。
そうか。
そうだったか。
ここが、ジオトラポリスだったんだな。
見上げると、まばゆい閃光があたりを包み、真っ黒な空が落ちてきた気がしたが、それが何かを確かめる術は、もうなかった。
|