真夏の夜の桜の下の


「お父さんには内緒よ?」
そう言って人差し指を自分の手に当てて、にっこり微笑みながら納屋の鍵を開けてくれたのは、いつも叔母の暁子だった。
お仕置きのために僕を納屋に閉じこめた当の父は、大抵次の日には僕を納屋に閉じこめていたことすら忘れていたのだから、叔母がいなければ僕は少なくとも3,4回は納屋の中でひからびて死んでいたかも知れない。


そんな昔を思い返しながら、僕は母屋の隅にひっそりと建っている納屋の鍵を開けた。
幼い頃のトラウマからか、自ら足を踏み入れるのに少々戸惑ったが、中に入ってみると、昔閉じこめられた頃の記憶とは違い、何の変哲もない、薄暗く埃の臭いのするただの物入れだった。
開け放したままの扉の向こうから流れ込んでくる光に反射して部屋中に埃がきらきらと舞うのが見える。
僕は古い新聞紙の束や、幼い頃に好んで遊んだ玩具たちを追いやりながら、ある物を探していた。
ここにあるというのはわかっているのだけれど、積み上げられたガラクタの中からそれを探し出すのは至難の業だった。

「もういいのよ。無いのならしょうがないわ。もしかしたら、下宿の方へ持っていったのかも知れない」
そう言って喪服に身を包んだ叔母が僕の後ろ姿に声をかけた。
「いいや、それはないよ。たぶん、兄さんが家を出る前の品ならここにしまってあるはずなんだ」
振り返らず探し続ける。
「鍵がないとたとえ見つけられたとしても開けることができないんだよ。今年は約束の年なんだから」
叔母の困ったような顔が背中越しに見える気がした。
「でも、何も今日開けなくてもいいじゃないの。だって今日は・・・」
言いかけたその時、
「暁子さん、お坊さんが参ったからお茶だすの手伝ってちょうだい」
母屋の方から声がかかった。
「はい、ただいま」
声の方に顔を向けてそう答えると、
「ほら、真宏さんも一緒に戻りましょう。お経が始まってしまうわ」
振り返った僕に微笑んだ。
 


叔母と初めて会った日のことは良く覚えている。
雪の降る寒い日のことだった。
母が死んで3回目の冬。僕が7才の冬のことだった。
低い翼を広げたような鼠色の空と、地面を覆い尽くした真っ白な雪。
その中をクリーム色のフード付きコートをかぶった小さな影が父に手を引かれてやって来るのを、僕と兄は雪の積もりはじめた玄関の前で長い間待っていた。

僕たちの目の前で父は、
「お母さんの妹の暁子叔母さんだよ」
と彼女をそう紹介した。
叔母、と紹介された彼女は兄の啓介とさほど変わらない年齢の少女だった。
彼女は母の父、つまり僕たちの祖父が、晩年に再婚してできた子供だということだった。
彼女はフードを取って少し会釈をすると遠慮がちに微笑んだ。
切れ長の大きな目と、肩より少し伸びた真っ直ぐな黒い髪は記憶の中の母とは異なっていた。しかし、半分だけとはいえ、血のつながっている姉妹というだけあって、微笑んだ口許は僕に亡き母を思い出させた。

叔母の父親は僕が生まれる前に死んでしまい、たった二人で暮らしていた彼女の母親も病気で亡くなってしまったため、叔母はうちへ来ることになったのだ。

世間一般から見れば不自然な家族構成で、最初のうちは近所でもなにかと噂にのぼったりもしたものだったが、それでも3年前の春、兄が突然進路を変え、関西の大学に進学してこの家を出るまでの8年間、僕らはここで一緒に暮らしていた。

3年前、念願の大学に入り、家を出た兄は年に数回、僕宛に手紙をよこすだけで、お盆も正月もついに家に帰っては来なかった。だから僕も叔母も、兄は元気にやっていると思いこんでいた。

数日前、突然の兄の死を聞かされるまでは。



兄の死は事故だったという。
忘れ物を取りに、夜中一人で大学内にある研究室へ向かう途中、居眠り運転をしていたトラックがつっこんできたのだそうだ。その時頭を強打し、そのまま兄は目を開けることはなかった。

その時忘れ物に気がつかなければ。
もう少し早く気がついていれば。
研究室に向かう途中でコンビニに寄ったりしなければ。
どれか一つでも違っていれば起こらなかった事故。
兄は運が悪かったのだ。
その知らせを聞いたとき、僕は一瞬わけがわからず、受話器の前で呆然と立ちつくしてしまった。


兄の遺体を見ても、そこに横たわっている人物がどうしてもあの明朗快活で、優秀で、スポーツマンで、近所でも評判だった兄だとは思えず、それは読経の響き渡る仏間でこうして遺影を見つめている今も変わらない。

僕はカメラに向かって微笑んでいる兄の顔から目を離すと、部屋の隅で静かに目を閉じている叔母の顔を盗み見た。
兄の死を聞いたとき、叔母は黙って目を閉じると、自室へと入っていった。顔色を変えることも、涙を流すこともなかった。
次に、お坊さんの右斜め後ろに鎮座している父の顔に視線を移した。
父はうつろな目で立ち上る焼香の煙を見つめていた。母が亡くなってから、めっきり口数が少なくなり、医者いわく鬱病の気があった父は、兄の突然の死に対して、未だどういうふうに自分を持っていけばいいのか、決めかねている様子だった。
読経が終わると、食事の準備で台所は人で溢れかえった。みんな思い思いにお茶を飲んだり、談話したりしている。

「あなたが真宏くん?」
突然そう呼びかけられて振り返ると、そこにはショートカットの小柄な美人が微笑んでいた。
「そうですけれど、あなたは?」
その人はにっこりと微笑む。
笑うとつり目がちな目尻が少し下がって、少し幼く見えた。彼女は少し頷いてから、
「米山茜です。このたびはご愁傷様でした」
関西弁なまりの言葉でそう言うと、彼女はゆっくりと頭を下げた。兄の大学の友人なのだろうか。
「いえ、こちらこそ。わざわざ遠いところからお越しいただき、故人もよろこんでいると思います」
弔問客の受け答えも、最初のころこそは戸惑ったけれど、何十人とやっているうちになれてきてしまい、今では考えるまもなく自然に言葉が口をついて出てきた。
「・・・お兄さんにそっくり。しっかりしてるんやね」
彼女は目を細めて兄の遺影をじっと見つめた。その目は優しくて、寂しい色をしていた。
聞かなくてもわかる、おそらく彼女は兄の恋人だったのだろう。遺影を見つめる目は柔らかく、泣いていたのだろうか、澄んだ目の下は少し赤かった。きっと兄の死に何時間もかけて遠い関西からやって来たのだろう。

「兄はあちらでは元気にやっていましたか?」
僕の問いに彼女は不思議そうに見つめ返してきた。
「・・・いえ、兄は家を出てからこっちには帰ってきていなかったものですから」
困ったように少し笑う。
「ああ、そう・・・、ええ、元気にしてはりましたよ。真宏さんのこともよく話してて・・・。たった一人の弟さんやもの、可愛かったんでしょうね」
彼女の切れ長の瞳に涙がにじむのを、僕は気づかないふりをして頷いた。
「・・・兄は家では無口でしたから・・・」
僕の言葉に、驚いたように顔を上げると、彼女はにっこりと優しく微笑んだ。
その顔は僕に誰かを思い起こさせたけれど、口には出さずにいた。
「それでも、よく思い出してはったみたいでしたよ。・・・そうそう、こちらには大きな桜の木があるらしいですね」
「ええ、手入れをしていないので、お見せするような立派なものではないですけれど、古さだけは自慢できる木ですよ。裏庭にありますので、よかったら見てください」
彼女は少し考えてから、緩やかに微笑みながら、ゆっくりと首を振った。
「いいえ・・・いいんです。彼、春が来るたびよく言ってました。今年は家の桜は咲いただろうか。あそこには大切な思い出があるって。どんな思い出かいくら聞いても、私には笑って教えてはくれませんでしたけど・・・」
「だから、私がここの桜を見ても彼を想うことはできません。ここの彼の大切な思い出を、私は知り得へんのですから」

思い出?
兄はここを懐かしいと思っていたのだろうか。
父の反対も押し切って、ここから遠くへ離れた土地へ行ってしまったのに。

兄はもう二度と帰ってこないのだろうか。

何度となく僕はそんな思いを抱いたことがあった。正月もお盆も、兄は帰ってこなかった。長い年月を経てやっと帰ってきた兄は変わり果てた姿だった。

兄さんは、ここを懐かしいと思っていたの?

その問いに答えてくれるものは、もうなかった。



葬儀は、一種の儀式なのだと僕は思う。
悲しみを麻痺させる儀式。
顔も知らなかった親類や、故人の知人などの弔問客に対応し、するべきことの多さに忙しくててんやわんやしているうちは、悲しみに暮れる時間など存在しない。
実際僕も、葬儀の間中はこれを何のためにしているのか、どうしてこんな事をしているのか。兄が死んだという事実さえ忙しさの中にかき消されていた。
葬儀が滞りなく終わり、訪れていた弔問客が一人二人と帰っていくにつれて、ようやく悲しみの時間は到来するのだ。
最後の弔問客を見送った後、父は一言も口をきかずに、黙って書斎へと消えていった。


僕は制服を着替えると納屋に入り、再び鍵を探したのだけれど、いくら探してもそれらしい物は見つからなかった。
納屋になければ送られてきた兄の遺品の中かもしれない。
僕と叔母は遺品の整理にかこつけて、居間に兄の荷物を広げた。
関西から送り返されてきた遺品の数は驚くほどに少なかった。
まるで兄自身が最低限、最小限のものしか必要ないと言っているようだった。
もしかしたらという希望もむなしく、出てくるのは日用品の数々で、記憶に残る小さな銀色の鍵は出てこなかった。


「これだけ探してないのなら仕方ないわよ。・・・あきらめましょ」
叔母はそう言うと静かに立ち上がった。
小さく微笑みながら部屋を出ていこうとする彼女を僕は呼び止めた。
「・・・でも約束は今年だったんだよ」
その言葉に叔母は障子戸に手をかけたまま動きを止め、振り返って寂しそうに微笑んだ。
「きっと・・・、持っていってしまったんだわ。あの頃の思い出も、約束も・・・。・・・他は・・・何も持たずにいってしまったんだもの・・・」
そう言って出ていこうとする叔母の横顔が、あの時と同じで、僕は胸が痛くなった。



あの日。葬儀の前に納屋で鍵を探した後、見つからぬ鍵の在処に思いを巡らせながら、納屋と家の間にある裏庭を僕は一人歩いた。
腕時計を見ると、10時25分。読経が始まるまであと5分しかない。
僕は足早に庭を通る。
さすがに弔問客はみな座敷に入ったのか、さっきまで縁側でお茶をすすって談笑していた親族の姿も今はもう見えなかった。
やっぱり下宿先の荷物の中かな。
そう思いながら、ふと僕は思わず足を止めた。
庭の隅に一本だけある、生前母が好きだったという桜の木の下に、黒い服を着た誰かが一人佇んでいるのが目に入ったからだった。

叔母だった。

黒い膝下のワンピースに身を包んだ小さな体。さっきまで一緒に納屋で探し物をしていた姿。
長く伸びた髪を首の後ろで結っている。首筋からこぼれ落ちた後れ毛が、風に少し揺れていた。
何を考えているのか、叔母は桜の幹に手を置いたまま、じっと身動きひとつしなかった。
やがてふいにチラリと空を見上げる。寂しげに開かれた切れ長の目から溢れた涙が白い頬を、細い首筋へとつたっていった。
幹に置かれたままの両手に額をそっと置き、声をもらすことも、肩をふるわせることもなかったが、僕には彼女が泣いているのがわかった。
同時に、見てはいけないものを見てしまったような気持ちでいっぱいになった。
僕は叔母に声をかけることもなく、気づかれぬふうにそっとその場を立ち去った。



家を出て僕は土手に向かって歩いていた。
木炭の炭を息で吹いたような色の雲が薄暗くなった空の上に点在していた。何の変わりもない夏の日の黄昏。

誰そ彼は・・・・。
もういないこの世のものではない誰かに出会う時間。逢魔が時。
喉の奥までこみ上げてくるものがあって、僕は足を止めた。

幼い頃、兄と叔母と僕の3人で埋めたタイムカプセルがここに眠っている。
さらさらと流れる川は昼間は暇つぶしにやってくる釣り人で多いが、この時間になるとみんな家に帰ってしまうのか、河原には誰もいなかった。
土手には猫が一匹、僕を気にするふうでもなく歩いていた。近くまで寄っても逃げない。人に慣れている飼い猫のようにも見えるが、そういうわけではなくただ本当に人に感心がないだけの猫なのかもしれない。
土手から飛び跳ねるように降りると、僕を気にしたふうもなく、目の前を横切る。
洋猫が混じったようなフワフワした黒い毛に光が反射して一瞬銀色に見えた。
猫は通り過ぎようとした足を止めて、僕を振り返った。 
僕は猫を気にすることなく川面を見つめた。
銀色の猫は通りすぎた。

そのとき。
どこからか笛の音が聞こえた。・・・気がした。
そう言ったほうがあっているのだと思う。だって笛を吹くような人影など、どこにも見あたらなかったのだから。川のせせらぎに幻聴を聞いたのかも知れない。
だけれどそれは、泣きたくなるくらい綺麗な旋律だった。遠い異郷に思いを馳せるような、哀しげな、それでいて柔らかな音。音は高く響いて空に吸い込まれていく。
そして気づいた。音は僕のすぐ背後から聞こえていた。僕の後ろには鬱蒼としげるセイタカアワダチソウがあるだけで、人が潜んでいるはずがない。
だけど・・・

僕は草むらをかきわけて音のする方向へ進んだ。
猫がいた。
さっきの猫だ。
猫は僕の姿を見るとすばやく走り去っていった。一瞬見えたきれいな緑色の目が印象深かった。
「おい、こら」
僕はその後を追いかけようと、足を踏み出した。
ふっと体が浮く感覚と一緒に、僕の意識は途切れた。



――――――――桜の木の下に僕は立っていた。
頭上を見上げる。咲きかけた薄紅色の蕾が枝を覆い尽くすように付いている。
自分がここを出た後に、この蕾は花を開けるのだろう。
それはいままでそうであったように、この枝々に被さり、空を隠してしまうほど大量に咲き乱れるのだろう。
手の中に光る小指ほどの大きさの鍵を見つめる。
思いはここに、眠る。
誰にも気づかれることなく、誰にも咎められることなく。
誰かが名前を呼んでいる。
もうここを去らなければ。
もうここへ戻ることはない―――――――――――




「真宏さん!しっかりして、真宏さん!」
ぼんやりと開けた目の前に叔母の顔が見える。
切れ長の大きなまなざしが心配そうに僕を見つめていた。
「あ?ここは?」
「帰りが遅いのでどこへ行ったのかと、心配してやって来たのよ。草むらを踏み荒らした後があるから何かあったのかと思って探してみたら」
・・・そうか、思い出した。僕は草むらを踏み分けて歩いているうちにこの自然が作った大きな落とし穴に足を取られて転倒したのだった。
「よかった、気が付いて」
叔母はほっと胸をなで下ろす。
辺りを見回すと、真っ暗と言うほどではないが、さっきと違ってずいぶん日が暮れていた。

さっきのあれは何だったのだろう?
卒倒していた間に見ていた・・・・夢?
それとも・・・・

『彼、春が来るたびよく言ってました。今年は家の桜は咲いただろうか。あそこには思い出があるって』

茜さんの言葉をぼんやり思い出す。
兄が言っていたのは、このことだったのか。
僕は体を起こして頭を押さえる。少しタンコブができていた。不安げな叔母の顔を見つめると僕は口を開いた。
「ねえ、たぶん・・・、タイムカプセルの鍵の在処がわかったよ」



鍵は裏庭の桜の木の根本に埋まっていた。
几帳面な兄らしく、錆びないように2重に小さな袋に入っていた。
見つけたとき、叔母は「どうしてわかったの?」と不思議そうな顔をしていたが、僕はその問いには答えず苦笑した。
卒倒している間に夢で見たなんてこと言っても、信じてもらえるわけがない。

僕らは二人、鍵とシャベルを持って土手へとおりた。
すっかり日は暮れて、蜩が遠くで鳴いていた。
叔母は、懐中電灯で僕の手元を照らす。
「桜の下に埋めていたと言うことは、啓介さんはこれを見せたくなかったんじゃないかしら?だったら掘り起こすのは・・・」
叔母は僕にそういった。
・・・見せたくないもの。
僕はふと、梶井基次郎の小説の一節が思い浮かんだ。
「桜の下には死体が埋まっている」
ふ、と少し笑って振り返ると、彼女もは困ったように小さく笑った。
「私の記憶が正しければ、死体なんて入れなかったわ」
たしかにそうだ。
あの時、僕らは死体なんて埋めなかった。
埋めたのは小さな子供の頃の思い出たち。
「・・・でも、僕たちはあの時約束したんだ。10年後の今日にこれを掘り起こそうって。これは、開けるために埋めたんだから」
じんわりと額ににじみ出る汗を、僕は無造作に腕で拭きつつ、シャベルを持つ手に力をこめた。
「兄さんも10年後に僕がタイムカプセルを開けようとすると思っていたさ。鍵を関西のどこかに捨てるでもなく、家の木の下に埋めたのは、約束を持っていくことも、捨てることもできなかったからだ」


タイムカプセルは、記憶とは違い、思いのほか浅くに埋まっていた。
シャベルの先が固い物にあたり、僕は今度は手を使って大きな缶の箱を取り出した。
あのころは何時間もかけて3人がかりでずいぶん深く掘ったように感じていたが、今こうして掘り返してみると、それほど深いものではなかった。
記憶の中のタイムカプセルは青い色をしていたのだけれど、長年土の中で眠っていたせいか、塗料ははげて、蓋は錆びついていた。
僕は汚れた手のひらで蓋を拭った。
確認をとるように、隣を見ると、少しの沈黙の後、彼女はゆっくりと頷いた。

力一杯にそれをこじ開けると、中から袋で包んだ小振りの木箱が出てきた。小さな南京錠がかかっている。
「鍵が錆びてないといいけれど」
間をもたせるように、そう言いながら錠を差し込む。
なかなかうまく鍵が回らなかったが、力を入れて何度か動かしているうちに不意に、カチャリと音がして鍵が開いた。
「・・・開いた」

箱の中の思い出の品は、10年経った今もそのままの形で残っていた。
僕が入れたプラモデルも。叔母が当時集めていた貝殻も、兄の使っていたグローブも。どれも当時の僕たちの大切な宝物だった。
「こんなの入れてたんだね。すっかり忘れてたよ」
どこか見覚えのあるプラモデルを手にとって僕は笑った。
叔母を見ると、彼女も貝殻の入ったビニール袋とグローブを手にとって微笑んでいた。

「手紙・・・」
思い出したように呟いて、箱をひっくり返すと、中から袋にまとめられた手紙の束が出てきた。
10年前の夏に、僕が兄へ、兄が叔母へ、叔母が僕へ。それぞれに書いた3通の手紙だった。
3通の封筒の表にはそれぞれの宛名が書かれている。
叔母を目をやると、彼女はどうぞと言うように微笑んで頷いた。
僕は僕宛に届いた手紙を手に取って封を開けた。


「『10年後の真宏ちゃんへ。
 これを読んでいるのは18才の真宏ちゃんなのですね。
 隣に25才の私がいるのかしら?
 真宏ちゃんはどんな大人になっているのでしょうね。
 きっと8才の真宏ちゃんよりずっとずっと背も高くなって、かっこよくなっていることでしょう。
 私は自分の夢を叶えていますか?
 私は真宏ちゃんたちの家族になれたこと、とても嬉しく、誇りに思っています。
 この思い出を忘れず、これからも仲良くしましょうね。
                             10年前の暁子より』」


声に出して読むと、隣で叔母が恥ずかしそうに笑った。
僕も微笑みを返して次の封を開ける。
僕が兄に宛てた手紙だ。
そこには、10年後、受取人がどこにもいないことなど、予想もしていなかった幼い頃の僕がいた。


「『おにいちゃんへ。
 おにいちゃん、げんきですか?ぼくもげんきです。
 おにいちゃんはちゃんとおいしゃさんになってますか?ぼくもがんばってべんきょうをしていますか?
 いつかおにいちゃんとぼくとあっちゃんといっしょに、びょういんをひらこうといっていたゆめはかないましたか?
 ぼくはがんばっていっぱいいっぱいべんきょうをして、いつかおにいちゃんみたいになりたいです。それではさようなら』」


読み終えると僕は目を伏せた。
つたない文字で、兄がここにいることを疑いもせず無邪気に呼びかけている幼い僕がかわいそうで、目頭が熱くなった。
この手紙は届かない。
もう、誰の手にも。
小さく息をついて、僕は最後の手紙の封に手をかけた。
しかし、思いとどまって叔母の方へそれを渡す。
「これは、暁子さんへの手紙だよ」
差し出された手紙をためらいがちに受け取ると、彼女はしばらく黙って封筒を見つめた。

やがて、封を丁寧に破ると、中から出てきた一枚の便せんに目を落とした。
暖かい夏の夜風が叔母の長い髪を揺らす。
刹那、暗闇の中でも彼女が息を飲んで手のひらで口を覆うのがわかった。
「なんて、書いてあったの?」
彼女は顔を上げて僕を見つめた。
愁いをおびた瞳が、何かを訴えかけるようにまっすぐに僕を見つめる。
そして、夜の闇の押しつぶされたような静かな涙声で息を吐き出すように言った。


「『僕は、きみが、好き』」


僕は差し出された手紙を受け取った。二つ折りにされた便せんにはたった一行。
12才の少年から25才の女性への告白。
口をついて思わず出たような、せつない呟き。
手紙を読んで僕ははじめて気がついた。
兄がどうして家を出る春、この鍵を隠したのか。
これは今も変わらぬ兄の気持ちだからだ。
小さい頃の憧れではなく、22才の兄の思いだから。だからこのタイムカプセルを開けないように鍵を埋めたのだ。
叔母は手紙を抱きしめ、声を上げていつまでも泣いていた。
白い月がことり、音をたてて傾いた。

 

長かった僕の話ももう終わりである。

あの日からもう二年が経つ。
叔母は、葬式に来ていた顔も良く覚えていない親戚の人の薦めでお見合いをし、半年前にその人と結婚した。
一度会ったことがあるが、少し太った人の良さそうな青年だった。穏やかな声の、明るい人柄の人だった。
僕は地元の大学に進学して、今は父と二人でこの家に住んでいる。

いつもと変わらぬ日々の中で、裏庭の亡き母の好きだった桜の下にたつとき、ふと僕は妙な想像に思いをかられる。
生前、兄と叔母はもしかしたらこの桜の下で会っていたのかも知れない、と。
お互いの気持ちを伝えることなく、お互いの気持ちに気づくことなく、ただ二人で何度かこうしてこの大樹を見上げていたのかも知れない。
ここは、二人の唯一の二人だけの思い出の場所であったのかも知れない。
それは想像の域を出ることはない。

けれど、ただ一つわかることは、あの冬の日、たしかに僕らはクリーム色のコートに身を包んだ少女に惹かれていたと言うこと。
そのことに僕が気づいたのは、この木の下で兄のことを思い泣いている彼女の姿を見たときだと言うことだけだ。
いつか僕は恋をするだろう。
そして、それはきっとどこか彼女に似ている人なのだろう。


そう、思いはここに眠るのだ。
たった一つの約束を孕んで、今年もまた、木は花をつける。

誰かの思いを覆い隠すように。